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2005年11月取材:魂の前衛書道家 ヤマモトテルミ氏
2005年9月取材:バリ島Tシャツショップ経営 バルバングン 田中氏
2005年8月取材:イラストレーター野田哲朗氏

2005年11月取材:魂の前衛書道家 ヤマモトテルミ氏

魂の書道家 ヤマモトテルミさんです!

前衛書道家のヤマモトテルミさんは広島Tシャツビジネス塾第1期でグランプリを受賞!
その後・武士之言霊シリーズでイラストレーターの野田哲朗さんとのコラボレーション作品を見事に筆で演出。

さらに数々の迫力ある書道Tシャツを書き上げ世に送り出しています!
 
今回はヤマモトさんの工房とお知り合いの方にすてきな場所を
お借りしてのスペシャルインタビューとなりました!

なので、写真も見所ですよ♪

それではインタビューにいきましょう♪


書道以外にも先生っていろんなこと教えて下さる
じゃないですか。生き様自体を…。

---それではよろしくお願いします。

「あとで編集はしてくれますよね??(笑)」

 ---はい、大丈夫ですよ!ではでは。
    現在、Tシャツ意外の活動は何をされているんですか??

「小学校の書指導・作品展への出品、依頼のあった筆文字ですね。」

 ---へぇー!例えば、依頼ってどんなものがあるんですか?

「店舗の看板ロゴなど。でもそれはホントに稀ですけどね。」

 ---そうですかぁ。書道はいつから始められたんですか?

「六歳六ヶ月ですね!」

 ---六歳六ヶ月!!随分細かいですね(笑)

「なんかね、六歳六ヶ月で物を始めるといいということを親がどっからか
聞いてきてそれで始めたんですよ。

そこでは座って書くんじゃなくて、立って書くんですよ。
そこで指導してくれた先生が前衛書道をやられていて。

前衛書道=新しい傾向の字と広島では言われていましたね!

紙から飛び出してもいいし、でもそれは滅茶苦茶なわけではなくて、
大胆に書いても白いとこが残ってますよね?それをどう残していくか
によって、その白の利かせかたで、黒を見せるような感じ。」

 ---聞いてると難しいように感じるんですが。。

「でも子どもは勢いよく書ければいいと思うんですけどね。
でも勢いよく太く書き過ぎると、白が潰れちゃうから
黒(墨)で白を書くってことですかね。」

 ---墨で白を書く。。とても深い言葉ですね!

「先生が言ってたんですけどね(笑)」

先生との出会いは大きいですね。その先生じゃなかったら続けて
これなかったから。書道以外にも先生っていろんなこと教えて下さる
じゃないですか。生き様自体を…。
そういう部分にみんな惹かれて続ける生徒が多いですね。だから今の
小学生たちにもそういう先生に出会って欲しいですね!

 

---実際、ご自身が教える側になって今の小学生たちはいかがですか?

「今の小学校は学級崩壊とか聞きますけど、そんなことなくて
習字の時間が始まると、半紙を目の前にしてシーーーン。。
とすっごいみんな静まり返るんですよ。

緊張し過ぎて書き出せない子もいるんです!
まぁそんなに長くは持たないんですけどね(笑)

みんながすごく集中して、すっごい静まり返るのを見ると
気持ちがいいですね!」

 ---小学生にはどういうご指導をされるんですか?

「気持ちよく書こうね!っていうんですよ!

教え方は二通りあって、大きい筆で、大きい字を書きましょうって
いうときと、教科書の教材を使ってやるものですね。

教科書通りというと、筆の向きはこうやって、最後はこうやってって
あると思うんでけど、そういう中でも気持ちよさを出してもらいたくて。

例えば、擦れていたらもうダメだと思う子もいるんですけど、
最後にどちらか選ぶときには擦れている方のが、元気でいいでしょ?
と選んであげるんですよ。
小学生は、教科書みたいな字を書きたがるんですけど、こっちにはこっちの
良さがあるんだよーって言ってあげるんです。」


☆ヤマモトテルミ氏のロックンロール道Tシャツ


 ---それは今の生徒さんたちもヤマモトさんとの出会いがありますね!
            私も是非ヤマモトさんに書道を習いたかったです。。
 

 ---書道をライフワークにされたのはどれくらい前からですか?

「三年前からですね!それまではすっごい長く銀行員してましたね。
それで、趣味で土・日に書を書いていたんですよ。」

 ---長く勤めていた会社をやめて、書道をライフワークにしようと
                     思われたきっかけってどんなことですか?

「景気のいい時代から変化もありましたし、その中で自分側としては
やれることはやったし、やり切ったなと思えるとこもあったので」

 ---おぉなるほど。やっぱり、変化する時期ってあるもんなんですね。

    先ほど見せて頂いた作品にそれぞれテーマがあると
            おっしゃっていたんですが、全体的にヤマモトさんの
                       書道に大きなテーマはありますか?

「文字を書きたいときは、自分の言葉で詩までいかないんだけど、
言葉で何か表現したいんですよね。
日本語ってすっごいきれいじゃないですか!

言葉じゃないと通じないときもあるから、言葉を文字にして書きたい
っていうのはありますね。

墨象(ボクショウ)になると、書いたものを同じような響きの人が「おっいいね!」
「いいじゃない!」って感じてくれる人がいれば、もぉそれでいいんですよね。」

 ---その墨象では色を使われている作品があるんですが、
                          これは最近のものですか?

「結構私の中のブームがありまして(笑)
色を使って元気に書くっていうのがあったんですけど、
最近、やっぱり墨が好きなんだなぁっていうのあるんですよ。
すっごい黒と白で書きたい。そいうので、色はだんだん減ってきてますね。」

「書きたくなるから書く」

それでは、そろそろTシャツの話に。
広島Tシャツビジネス起業塾で優秀賞を受賞されて、Tシャツを本格的に始め
られたヤマモトテルミさん。今年2005年5月名古屋・愛・地球博、6月に広島
パルコにて、Tシャツ書道ライブが開催されました!

そのことについて、少し聞いてみましょう♪
私も、その場にスタッフとしていたんですけど、圧倒的な迫力でしたね。

 

 ---イベントでは、お客様がリクエストされた言葉を書くじゃないですか?
  そのリクエストの中で、この言葉はいいなぁ!っていうのはありましたか?

「やっぱり、Tシャツに「一生懸命」という言葉をかくなんて、
愛・地球博に行かなかったらなかったですね。これから海外に
行かれる方で、日本語のTシャツが欲しいと。

自分には書かない言葉ですよね。自分で着るなら、もっと曖昧な
言葉を書くと思うから。リクエストされて書く言葉は不思議ですよね。
あとは、結婚式があるからとか。みなさんいろいろですね。

パルコのときは野球部の子達が、先輩に贈るためのTシャツを
書きましたしね。「着るためのTシャツ」「贈るためのTシャツ」
人のリクエストに触れるのっておもしろいですよね。」

 ---確かに面白いですね!私も実際「音旅」「モンキーパンチョ☆」
                   二点書いて頂いて、とても大切にしています。

    それでは最後に、ヤマモトさんにとって「作る・書く」とはなんですか?

「書きたくなるから書く」

「紙と鉛筆があったら、小さい頃から楽しかったんで。
「書く」ことが好きなんだと思うんですよね。
あきらめかけて、離れようとしてもやっぱり書きたくなるから。」


【編集後記】

私がヤマモトさんに初めてお会いしたのは今年(2005)の6月広島パルコでの、書道ライブのとき。いつも、力強い書道作品を見ていただけに、穏やかな表情のヤマモトさんとお会いし、そのギャップにとても驚いたことを覚えている。

イベントでは、お客様のリクエストに笑顔で答え、一緒に作品を作りあげる。
そのTシャツは書道家・ヤマモトさんの作品でもあり、リクエストをしたお客様の作品でもある。お客様はご自身の作品を目の前で書かれる瞬間、とてもドキドキしながら待つ。会場の雰囲気も一瞬の緊張感に包まれる。それもヤマモトさんの一筆にこもるパワーからくるものだと思う。

今回のインタビューではそんな息をのむ緊張感とは一変し、とても穏やかな表情で迎えて下さった。Tシャツ以外の書道のお話を聞けたのも改めてヤマモトさんの魅力を感じるものとなった。

(2005/11/15 取材スタッフ:AYA)


インタビュー後:(左)社長、西村 (右)ヤマモトさん


投稿者 anything : 17:58 | コメント (0)



2005年9月取材:バリ島Tシャツショップ経営 バルバングン 田中氏

「もうこれは確信を持って言えるんですけど…
3年後もバリ島のウブドでTシャツ屋をやってますね、確実に。
間違いないですね。」

 旅行好きだった日本の大学生が、コネも人脈もないインドネシア・バリ島に渡り、Tシャツショップをオープン…、ブランド名はBarubangun バルバングン。
そんなフツーじゃ考えられない棘(いばら)の道を敢えて自分から歩む男、田中利典26歳。
(Tシャツビジネス塾第1期卒業生)
 日本に一時帰国した彼に、ワタクシ酔っ払い社長・西村が、彼の日本の自宅近く・横浜の居酒屋でビールを5杯+日本酒4合飲みつつジンギスカンをつつきあい、、ロングインタビューを行ってきました!!

*Barubangun公式サイトはこちら

田中氏がデザインし、現地の職人さんたちが一点一点手で作っていくバティック染めの逸品。

以下、インタビュー

 - 無事、帰国、おめでとう!かんぱーい

「かんぱーい、あーうまい!!久々の日本のビールだなあ!!バリからの帰りに、タイをゆっくり回って帰ってきたばかりなんですよ。」

 - そうですか~、田中さんは今は、バリ島でTシャツ屋さんを営んでるんですが、以前、バックパーカーで世界を周っていたんですよね??

「最初は、オーストラリアに半年いたんです。その後、帰国して、お金貯めて、再出発しました。
それからが始まりですね。インドネシアのバリ島から入って、シンガポールに行きました。そのあと、マレーシアを北上して、タイと移動して、その後、インドへ飛んでいろいろやりましたね。その後ネパールに行きました。ネパールは、バリの次に長かったなあ、1ヶ月ぐらい。
その後、タイに戻ってきて、またまたバリに戻りました。」

 - なぜバリにまた行ったんですか?

「やっぱりいろんな国に行ったけど、バリが一番だったんですよね。
バリ島でも、一番有名なクタ(ビーチ)ではないんですよ。」

 - クタはみんな観光で行くところだよね?

「そう、でもバリじゃなく、ウブド、芸術の街なんですけど、そこに惚れ込んでしまいましてねえ~
最初の3日間はクタに行ったんですけど、全然楽しくなかったんですよ。
そこで、現地の人に「ウブドは良いよ」っていう話を聞いて、クタを去ってウブドに行ったんです。」

 - 現地の人って?

「マックをやっているおじさんですね。」

 - マックってマクドナルド??

「そうなんですよ、たまたま出会って、ウブドの話を聞いたんです。
つたない英語で話をして、「ウブドは芸術の村だ」って。
4日目にすぐにウブドに行ってましたね。」

 - 話は戻りますけど、最初オーストラリアにいたっていうのは?

「バックパッカーの旅の前に、オーストラリア半年でワーホリ(ワーキングホリデー)してました。」

 - ワーホリって仕事してたの?

「そう、オーストラリアの農場で働いたり、現地のカメラマンのアシスタントをしたりして生活費を稼いでたんです。それから、アジアを周ろうと思いました。それがバックパッカーのきっかけですね。」

 - オーストラリアで働いてたのは何歳のころ?

「:21~22歳のころですね。大学生のころです。史学科に通ってたんですよ。
幕末にハマってしまいまして…。竜馬とか…、いいなあ、と勉強してたんですよ!」

 - えー、今のバリ島の田中さんからは想像できないね~(笑)
周りは就職活動するでしょ?不安じゃなかったの??

「幕末の人たちじゃないけど、何か自分もやってやりたいなあ、と思って。
就職は自分の道じゃない!とそのころから思い始めて、考えれば考えるほど、選択肢に入らない!と強く思うようになって。
その後、建設現場でずーっと働きながら、お金を貯めてましたね。
力仕事ですよ、荷揚げです。きつかったけど楽しかったですね。
そこでオーストラリアに行くお金をためて、現地に渡りました。」

 - なんで建設現場を仕事場として選んだの??

「なんでかな~?でも、やっぱり人生、苦労して生きたいじゃないですか。」

 - 苦労して生きたい??

「やっぱり、その方がいいじゃないですか。大変だけど、お金ももらえて、カラダも鍛えられて、いい仕事でしたよ。」

 - それでオーストラリアに半年いて、日本に帰ってきて…。それでまた日本を飛び出すんだよね?帰ってきた時には何をしてたの?

「また、建築現場で仕事して、お金稼いでましたね。建築現場のほかにも、飛行機のペイントを落とす仕事もしてました。これも大変だけど、楽しかったなあ~
飛行機の機体の柄を翼の上に昇って落とすんですよ。特殊な薬を使うから、マスクしてやるんですねど…。」

 - それで十分、稼いだと…。

「そうです、海外周るんだったらそんなにお金いらないですし。でもバリじゃなくて、最初は半年行ってたオーストラリアにまた行って、ラウンドって言われるオーストラリア大陸1周をしようと思ってたんですよ。」

 - でも、なぜオーストラリアじゃなくて、バリに行ったの??

「それが、人生の大きなきっかけになったんですけど、荷揚のバイトしていた時の先輩の方に、海外に行くなら、って一冊の本をもらったんですよ。
ロバート・ハリスって人の「エグザイルス・ギャング」って本なんですけど…。「エグザイルス」の2冊目です。世界を放浪しているアウトローの話なんです。」

 - へ~、その先輩にも興味があるね。

「そうそう、その人も子供の頃、親の仕事の関係で世界を転々としていた方なんです。」

 - その方に、本をプレゼントされたと…。

「本自体は、オーストラリアでお店を開業した人の話なんですよ。本屋さんをやって、いろんなアーティストが集まって…。
その中でバリ島が非常に魅力的だと…。」

 - ピン!と来たんですね?

「そう、ぜひ行きたいなあ、と思って。バリに行って、その後アジアを回ってやろうと。それで、バリのウブドに行ったらハマってしまって。」

 - どうしてウブドなんだろう?

「しっくり来るんですよね~。バリ島のウブドの雰囲気は、観光ではなく’住める’街なんですよ、僕にとって。」

 - ウブドって芸術の街なんだよね?

「そう、クタ(バリ島の有名な観光地)とも、他のアジアの国々とも違う…。小さな街なんですけどね。そこで新しいスタートを始めたんです。」



大家さんでありおじいちゃんであり有名な画家であるワヤンジュジュルさん

 - その後、バティックTシャツを作ることになると思うんだけど、それは何がきっかけだったの?

「もともとTシャツは好きだったんですが、ウブドで暮らしていくには、何かこの街で作って暮らせたらいいなあ、と。そこで自営業をしたいなあ…と。3年前ですね。」

 - ’自営業’をしたかったんだんだ?

「そう、自営業をしたかったんです。ネパールにいるときにも現地の雑貨を日本に売る仕事もしてたんですが。
ウブドにいても、すぐには始められないから、向こうでバイトしてたんです。ある人の紹介で怪しい仕事もやりましたね~。
その後、自分自身で何かやりたいなあって思って。とにかく、自営業がしたかったですね。」

 - へ~それも意外だなあ…何で自営業にこだわるの?

「それは自分の足で走っていたい、って気持ちが強いんですよ。家がサラリーマン家庭っていうのもあると思うけど、その反発か、何か自分の力で生きて行きたいんですよね。
サバイバル、世界どこに行っても通用する力をつけたいっていうか。」

 - なるほど。

「たとえ会社員で、そこを外れても、自分で生きて行きたいっていう。
そこで、ウブドで、「仕入れ」じゃなくて、何かを作りたいと思ったんですよね。最初はプリントTシャツで「Asian Alley」っていうブランドのTシャツを作ったんですよ。アジアの横丁って意味なんですけど。ひどかったなあ~あれは。
自分は普通のプリントTシャツを作りたいんじゃないって分かった…。」

 - それからバティックを作るようになったの?専門的な技術がいるものでしょ?

「そう、大変なことだけど、でも楽しいんですよね。バティック職人さんの下について、必死で勉強したんです。月謝払いながら。」

 - やっぱり努力してるなあ…

「家に帰っても繰り返し繰り返し、復習して。それでやっと、バティックの基本を知って、ようやく見栄えのするTシャツが出来るようになったなあ。
そこから、もっと良いもの、もっと良いもの、と。徐々に職人さんにも指示が出来るようになったんです。」

 - 今までで一番の作品は何ですか?

息吹!もう、これが一番ですね。オーストラリアのアボリジニーの楽器の有名な奏者がバリに来て、ライブを見に行ったんですけど、それに感激して。そのイメージを書き殴ったら、出来たんです。あれが一番ですね。イメージをTシャツに、ゼロから1にしたのも初めてでしたし。」

 - そうですか~、そこでまた成長したんですね…
田中さんの作品は、全部一枚一枚手で職人さんが作ってるんだよね?

「そうですよ、最初は真っ白の大きな生地ですからね。そこに蝋(ろう)をのせて、染めて、蝋(ろう)を取って、縫い子さんが縫ってっていう、大変な作業なんです。
僕は原画を作って指示をしているんですけどね。作業は職人さんがやります。」

 - 最後に、質問!3年後には何をやってますか?

「もうこれは確信を持って言えるんですけど、って言っても、最近タイを回りつつ確信に変わったんですけど、3年後もバリ島のウブドでTシャツ屋をやってますね、確実に。
間違いないですね。」

 - 素晴らしいなあ、ありがとうございました。
お互い頑張りましょう。

「こちらこそ、かんぱーい!!」



大家さんのお孫さん2人とティンクリック

(インタビュー後記)

「やっぱり人生、苦労して生きたいじゃないですか。」
人生には、幾度となく分かれ道がある。立ち止まり、誰もが悩む。
大学生の頃から、常に道を自分自身で「(他人から見て)苦労しそうな」道を選び、進んでいく彼。
一人、言葉も通じない見知らぬ地に立ち、店を開店させるそのエネルギーを、この言葉が象徴していると感じた。
頑張れ、田中利典 26歳、ウブド在住、日本男児。


2005年9月 田中氏の日本の自宅近くの居酒屋にて

★取材スタッフ 西村(右)


投稿者 anything : 21:12



2005年8月取材:イラストレーター野田哲朗氏


 「僕は画家ではなくイラストレーターでありたいんです。クライアントから依頼を受けて、みんなに喜んでもらえるような絵を描いていたい。」

 書道家のヤマモトテルミさんとの合作で、文字とイラストによる爆発的な化学反応を起こした「武士之言霊(ブシノコトダマ)」シリーズ、そして漢字TシャツAnythingの人気商品である「サムライの別れTシャツ」や「’Anythingマスク’」シリーズのデザインを手がけている野田哲朗さん(Tシャツビジネス塾第2期グランプリ受賞)!
 今後の活躍に目が離せない!武士之言霊シリーズでおなじみ、イラストレーター野田さんに、ご自宅へ伺ってのロングインタビューを行ってきました!!


 −絵にはいつ頃から興味があったんですか?

 「幼稚園の頃から好きでした。5歳くらいですかね。母方の祖父が退職してから日本画を描いていたんですけど、そういう姿を真似したりして。」

 −最初はどんな絵を描いていたんですか?

 「うーん、漫画の写しが多かったですね。最初は筋肉マンだったかな。その後、小学校低学年になってからドラゴンボールとか写してましたね。ジャンプとか買うじゃないですか。それを持っていかないで、わざわざ自分でキャラクターを描いて友達にこんなキャラが出るんだよーって教えてあげてました(笑)。」

 −筋肉はその時から好きなんですね(一同笑)。小学校のときはどんな感じでした?

 「自分で言うのもなんですけど、スポーツ万能タイプでした。中学生のときは陸上部だったんですけど、都大会に出場したりしましたからね。」

 −へえ、すごいですね。(周りを見て)いろんな種類の本がありますけど、これは資料としてのものがほとんどなんですか?

 「そうですね、ほとんど本を買う目的は資料としてです。」

 −路上ペインティングをしていたっていうのは?

 「やってましたね。夜中の12時くらいに一人で家を出て2時間くらい地元の公園で描いてました。トイレの壁とかコンクリートの滑り台とかに。描き終わって1週間くらい経ってから見に行くんですけど、消されてるんです。市の職員さんがきれいに掃除しているんですね。描いてるときは思わなかったですけど、悪いことですからみなさんはやめましょうね。でもそれだからこそ楽しいっていうのがあるんですけど(笑)。」

 −どうして路上ペインティングをしようと思ったんですか?

 「高校に入ってからHIPHOPを聞くようになって、そこから影響を受けましたね。HIPHOPってそういうのあるじゃないですか、グラフィティ(路上ペインティング)アートっていうのが。ただ描いて帰ってくるだけなんですけど、楽しかったな。」

 −それに関連して他にやっていたことってありますか?

 「ラップですね。友達とバンドを組んでヴォーカルをやってました。20歳過ぎまでやってたんです。ラップをやってたときの自分っていうのは、ただの目立ちたがり屋の少年でしたね。今になってみれば、グラフィティっていう外で描いてたのもその一部だったと思います。見てもらいたい、って気持ちもちょっとはありましたし。それにラップやったり、グラフィティをしていることが
かっこいいって思ってましたから。自己表現のひとつの形ですね。」


 −なるほど。話は少し飛んでしまうんですけど、野田さんがこれまでにどんなイラストの仕事をしてきたのかを教えてください。

 「はい、まずはAnythingさんからデザインを依頼されてイラストを描くっていう仕事をさせてもらってます。西村さんは分かってくれているので仕事がしやすいですね。他には知人からの伝手で出版社に紹介してもらって、小説の挿絵を描くっていうのとか。それと某大手ゲームメーカーの商品企画スケッチをしたり。」

 −企画スケッチって言うは?

 「こういう商品が出ますよっていう告知のためのものです。UFOキャッチャーのぬいぐるみの企画スケッチをしたときには、試作の商品が見ることができたんですけど、そのときは嬉しかったですね。あ、昔になりますけど、ネイルサロンのロゴのデザインなんかもやりました。」

 −オリジナル作品を描くときのアイディアの源泉ってどんなことなんでしょう?

 「そうですねぇ・・・毎日落書きをしているんで、それが作品へのヒントになることがありますね。僕はあるものを描いてもつまらないって思っていて。絵だからできることがしたいんです。ありそうだけどない、いそうだけどいないっていうこの世界観を見て欲しい。」

 −(野田さんのパソコンにある作品を見て)未来を感じさせるものが多いですね。

 「未来って、みんなそれぞれ想像してることはやっぱり違うと思うし、人の歩み方によっていろんな違った方向、可能性があったと思うんです。それを自分の解釈で具現化するのが楽しいんです。今3DCGってどんどんリアルに近づいてきてるんです。でもこれCGだろうなってみんな想像すると思うんですよね。でも絵っていうのは純粋にその世界観が感じられるんじゃないかって。偽者だとか本物だとかそういうことじゃなく、絵として。その分技術は必要ですけどね。」

 −その世界にこめるメッセージってありますか?

 「そこまで強いメッセージはないです。その人その人が感じるままに感じてくれればそれでいいと思います。自分のイメージを押し付けたりはしたくはないです。」

 −なるほど。人それぞれの感じ方は違いますもんね。

 「ええ。あとはいろんなキャラクターを自分で書き直すっていうのが好きなのでそこから参考にしたり。僕はアメコミが好きなのでキャラクターはアメコミからのものが多いです。」

 −アメコミとの出会いはいつになりますか?

 「中学生のときにカード屋さんみたいなところでサイモン=ビズレー(アメリカで有名なイラストレイター)のグロテスクなイラストカードを買ったり、アメコミの雑誌を見たりしているうちに。当時はインポート物しかなかったから高かったんですけど。それをちょこちょこ集めるようになって、好きになっていきました。」

 −尊敬するイラストレイターさんというのはいますか?

 「フランク=フラゼッタです。60、70年代にファンタジーアートを描いて活躍した方なんですけど、フラゼッタ自身がもうカテゴリーになってるくらいなので。フラゼッタっぽいね、なんてよく言われてます。フラゼッタを知るまでは日本でトップクラスのイラストレイター、寺田克也さんが好きでした。画集を持ってるんですけど、ぼろぼろになるまで見ましたから。フラゼッタを知ったのも寺田さんのインタビュー記事を読んでいるときでした。イラストを書き始めたころから寺田さんのことは知っていたので、今の僕のイラストにはすごく影響していると思います。」

 −最後に、今後の方向性が決まっていたら教えてください。

 「方向性というかは分からないですけど、いま頭の中にあるのは絵がうまくなりたいということです。そうすれば自然に世界が広がっていくと思うので。ただやりたいことがあっても実力が伴っていなかったら意味がないですからね。やっぱり実力をつけたいです。絵を描いていたら一生満足できるものって描けないと思うんですね。・・・ただそれがいいのかなって。」

「毎日書かないと落ち着かない。」
 中途半端を何よりも嫌う彼は毎日何かしらのイラスト、落書きを描いているという。イラストに対する情熱、そして向上心は今日も止まるところを知らない。



野田さんがデザインした商品の一例!
 ☆武士之言霊シリーズ
坂本龍馬、土方歳三、織田信長のイラストTシャツ!!!
 ☆漢字TシャツAnything
サムライの別れTシャツ、’Anythingマスク’シリーズ:第一章「背水の陣」 第二章「宿命」!!!
 

                           2005年 8月29日(月) 野田さんの自宅にて

                           取材スタッフ 爪楊枝カズマ


投稿者 anything : 22:03